それは、私が初めて請負の仕事で、採用になったときのことでした。

請け負った業務の内容は、某官庁での事務職でした。

面接の日に、採用の可否に関係なく、採用になったときのためにと言って、雇用契約書や保証人など、入社に必要な書類、計8点ほどを渡されました。
幸運にも採用になった私は、初出勤の日に、保証人のサインを除く一連の書類を書き揃えて、担当者に手渡しました。

その数日前、一連の書類に目を通したとき、私は契約書に記載された十条ほどの文言のなかの一条が、理解できませんでした。

はっきりと覚えていませんが、『本契約は、法律を遵守して、云々』と記載されていたように思います。

十条の文言は、すべて短文でしたので、その文言を読んだとき、『法律とは、いったいどういうことを言っているのか』と思いましたが、短い文言を何度読んでみても、書かれている意味がわかりませんでした。

しかし私は、官庁での事務業務で、しかも雇用の定めが無く、さらに勤務延長で75歳まで働ける、その仕事にどうしても就きたかったので、意味不明のままサインをして提出しました。

念のため、コピーをとっておけばよかったのですが、相手は会社ですから、当然、その場ででも、コピーをくれると思っていました。

ところがくれなかったのですが、それなら近日中にくれるものだと、私は思いました。なにしろ契約書ですから、一番重要な書類です。

そして業務に就き始めて三週間ほどが過ぎたころ、採用になった15人のうちの一人の男性が、「契約書に記された一条の文言が、どうしても納得できない。担当者に尋ねて、説明を受けてからでないと、サインはできない」と言い出しました。

その男性は、某官庁で数十年、書類作成の仕事をしていたそうですが、定年退職したので、再就職先を探して、採用になったということでした。
書類作成のベテランが言う言葉ですから、重みがありました。

私は、『もしかしたら、あの一条かもしれない』と思いましたが、その男性とは話す機会がないままに、その男性は辞めました。

辞めた理由は、契約書のその文言を担当者に尋ねたところ、大口論となり、その結果、男性はその場で即座に「納得できない、そんな会社では、働けない」と言って、出て行ったそうです。 

その日、私は離れた場所で仕事をしていましたので、口論は聞こえませんでしたが、廊下中に響き渡るほどの大口論だったそうです。

そしてそれから一週間ほどが過ぎたころ、私は、一身上の都合で辞めました。

トラブルが起き、とても勤めを続けることはできない、と思ったので、その場で、退職を告げて帰りました。

しかし退職に必要な書類は、数日のうちに、担当者にすべて渡しました。

ところで、契約書の写しは、そのときになってもまだ、渡してもらっていませんでした。

それからひとつきが過ぎて、翌月の月末、夕方になっても、給与が振り込まれません。

翌日、私は、本社経理課の給与担当者に電話をかけました。すると、

「出勤簿が提出されていませんので、給与は出せません」

「出勤簿は、担当者のAさんに渡しました」

「でも、提出されていません。Aさんと、話して下さい」と言われました。

私は、Aさんが所属する支社に、電話をかけました。

「Aさんはねえ、ここには席はありません。携帯に連絡して下さい」、と言われました。

携帯に電話をかけると、Aさんは出ましたが、

「出勤簿は、提出しました。本社と話して下さい」と言います。

私は再度、本社に電話をかけました。

「こちらでは、わかりません。Aさんに、聞いて下さい」

またAさんに、電話をかけました。

「支社長から、電話を入れさせます」

『たかが請負の、しかも試用期間中の私の給与の支払いごときに、支社長がいったい何を言ってくるのか? もしかしたら、払ってくれる気がないのか』と思いながら私は、電話を待ちました。

次の週、その次の週、待っても待っても、支社長からの電話はかかりません。

私は、労働基準監督署に電話をかけて、事情を話しました。

「相手の会社に電話をかけるためには、こちらの書類に、必要事項を記載してもらわなければいけません。そのうえでその書類を、会社の本社がある△△県の労基署へ送付して、その労基署から指導を入れてもらうことになります。でも、もしかしたらそんな会社なら、地元の労基署に、なにか耳寄りな話が入っているかもしれませんねえ。一度、直接、△△県の労基署へ、電話をしてみてもいいかもしれません」と言われました。

私は△△の労基署へ電話をかけて、事情を話しましたが、特にこれといった反応はなく、私が働いていた官庁のある管轄の労基署から、手続きをとるようにと言われました。

私は労基署へ行く前に、無料法律相談を受けました。

「契約書の写しをもらっていない場合、もしかして、契約は成立していないのですか?」ということを、聞くためにです。

私は弁護士に、契約書の写しをもらっていないことと、契約書の文言が原因で、男性が一人辞めたことを話しました。

弁護士は、「契約書の写しをもらっていようといまいと、事実があれば、契約は成立しています」と言いました。

「○○(官庁の名称)に請負で業務委託をとれるほどの会社なら、大きな会社だろうから、労基署に行って手続き書類を書けば、給与を支払うように指導を入れてくれるでしょう」  

ということになりました。

そして労基署を通した結果、支社長から電話が入ることになりました。

支社長は、こう言いました。

「民法を御存知ですか? 民法では、請負契約を解除する場合、14日前にその旨を告げることが決められています。あなたは、即日に放棄しましたから、当社はあなたに対して、14日分の損害賠償を請求する権利があります」

ということでした。

結果としては、出勤した日数分の給与から、14日先までの出勤予定日数分の給与を引いた金額が支払われました。

不審を持った契約書の文言、あのときにきちんと調べていれば、こんなことにはならなかったのに・・・・・・、後悔しても、後の祭りでした。