私がいままで勤めた会社のなかで、親族がトップを固めている会社がいくつかありました。

その中のひとつに勤めたときのお話です。

その事務所は、2人で事務をする事務所でした。事務所には、事務員の2人がいるだけでした。

9:00~17:00までのあいだ、役所に提出するある手続き書類を受け付けて、書類に不備がないかどうかを確かめたうえで役所に提出し、手続きが済んだ書類を役所から受け取ってきて、提出した人に連絡をして返す、という内容の仕事でした。

手続きには、代行料をもらいますので(これが私たち2人のお給料になります)、経理事務もありました。

それまでの十年間は、一人の事務員で業務のすべてをこなしてきましたが、その事務員が定年退職をするにあたって、それ以後は同じ業務を、2人ですることになったのでした。

なぜそれまで一人でしていた業務を、これからは2人ですることになったのかというと、退職する人が言うには、「会社にいくら頼んでも、事務員をもう一人、雇ってくれなかった」ということでした。

そういう事情で採用になった私は、退職する事務員がまだ在籍しているあいだに引き継ぎを行う、ということで、その会社に勤め始めました。

私と一緒に仕事をする人は、Aさんという女性で、私より二歳、若い人でした。「お受験ママ」で、「お受験成功ママ」でした。

Aさんは、すでに一年前からその会社に入っていましたが、引き継ぎはまったく受けていないということでした。

一年も前から在籍していたのに、なぜ、まったく引き継ぎをしていないのか、というと、実は、一年間をかけて引き継ぎを受けた後任者は、数日前に辞めた、ということでした。

それにしても、やはりすでに一年前から在籍しているAさんが、まったく引き継ぎを受けていない、というのも、ちょっとおかしな話だけれど・・・・・・。

なにやら不穏な空気を感じながらも、私は、『役所の書類関連の仕事なら、完全な事務職だろうから、思わぬ仕事もなくて安心だ』という理由で、引き継ぎを受けました。

引き継ぎの期間は、一週間でした。役所関連の仕事ですから、5日間ということです。

その5日のあいだに、私は退職する人から話を聞かされて、だいたいの事情が呑み込めました。

Aさんは、会長の義理の妹で、経理部長は実の姉だそうです。Aさんの夫は、まったく関係のない会社に勤めているそうです。

退職する人が、後任者に一年をかけて引き継ぎをしたにもかかわらず、後任者が辞めた理由は、退職する人がいうには、「会長の義理の妹であるAさんと、二人だけで仕事をするのが嫌だから」ということでしたが、Aさんがいうには、「あの人、仕事に自信がなかったのよ」ということでした。

「会社にいくら頼んでも、事務員をもう一人、雇ってくれなかった」ということについては、Aさんにいわせると、「誰を雇っても、ダメなのよ。退職するあの人とは、うまくいかなくて、すぐに辞めてしまうのよ。あの人は、仕事を自分だけで独占して、人に教えようとはしないのよ。人に仕事を教えたら、自分が首にされると思ってるのよ」ということでした。

どちらの言うことが本当かはわかりませんが、二人が対立していたことだけは、確かでした。そして退職する人がAさんを嫌う理由は、会長の義理の妹であるからです。

そういう背景があるなかで、私はその事務所に勤めました。

Aさんは、お受験に成功するだけあって、常識をきっちりと身につけた賢いママでしたが、それまで一度も、家の外に出て働いたことがない、という女性でしたので、仕事の作業の中身については、私は一言も注意を受けたことがありませんでしたが、パソコンを置いたデスクの椅子がきちんとデスクの下に片付いていないとか、まるで家庭の中で母親が子供に叱るようなことを、よく言われました。

私は、Aさんが会長の親族だからと気を遣って、Aさんが不愉快なことは言わなかったのですが、いままで事務の経験がないAさんは、文房具などについて、あまり知識がないので、私が見かねてアドバイスをすると、どうもおもしろくないようなのです。

「どうでもいいじゃない、そんなこと」と言って、そっぽを向きます。

私にとっては、デスクの下に椅子がきちんと入っていないことの方が、どうでもいいことのように思いましたが。

文房具のことなんて、ちっちゃなことです。とにかく、家庭の中で主婦が一番偉いように(?)、Aママを立ててさえいれば、穏やかに時間は過ぎていくのでした。,

Aさんは、働きになど出ないで、ずっと専業主婦をしていたかったらしいですが、その事務所の仕事をする人がいないので、また見つかってもすぐに辞めてしまうので、「どうしても、事務所の仕事をやってくれ」と会長から頼まれて、イヤイヤ勤めに出たそうです。

そうしてひとつきぐらいが経ったころ、Aさんは、こんなことを言いました。

「私ねえ、ここで働いてみて、初めてわかったの。お給料っていうのは、『我慢料』なんだわって」

Aさんにしてみれば、義理の兄である会長に頼み込まれて、イヤイヤ事務員を務める事務所なのかもしれませんが、たとえば退職した人や後任予定だった人、私などからすれば、背中に会長の影が見えるようなAさんの「親族のコネクション」は、この上ない強力なコネクションです。それが、どれほど素晴らしいことか。

「お給料は『我慢料』」は、コネクションのない私たちの台詞です。

それからしょっちゅう、Aさんは仕事をしながら、「我慢料、我慢料」と呟くようになりました。

私の採用には、三ヶ月の試用期間が設けられていました。試用期間の終了を以て、私は退職しました。「我慢料」という言葉が、私へのあてつけに聞こえてきたからです。

その後、風の噂に、後任者が採用になっても、すぐにまた辞める、ということを聞いています。